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juri kitagawa

2021年11月、希望と焚き火とくま

 もう11月になってしまった、もう少し気軽にここへの文章を書きたいので、これからは今まで以上にまとまらなくても投稿してみようと思う。書くことで、なにかよくわからない心のなかの澱が言葉のちからを借りてかたちになるかもしれない、と最近感じることが増えた(それにはなにかきっかけがあったような気がするけれど、それは忘れてしまったのでとりあえずはよいこととする)。


 最近はそんなに調子は良くなかったような、良かったような、でもやっぱりちょっとしんどいような、日々だった。仕事は遅く、やっぱりメールは返せないことも多いし見ることもどきどきしてしまうけれど、なんとずっとできなかった料理を再開することができた。さらに、ひとりでも買い物ができるようになった。これはここ2年弱ほどのわたしを思うとすごいことである。お湯もなんなく沸かせることが多いし、だから眠るまえにはあたたかいものを飲みながらすこしだけ書きもの(明日の予定や調子が良ければ日記なんか)をすることさえできる(いまもそう…と思ったけれど、今日は彼が淹れてくれたのでした)。

 いまのわたしには、信じられないくらいできないことが多い、けれどそこからできるようになることもたくさんあることを、うれしく思う。そして、だから、あまり当たり前と思わないようにしたい、希望のようだと思っていたい。しかしできないことが増えることだって、希望だと思いたい。起き上がることができ、寝転がることができるという希望。だから繭のようなおふとんにくるまって、どうぶつの森だけしかしない日のことを、ベランダにぼうっと寝転がる日のことを、責めたくない、小さくなってしまったろうそくの火を、消さないように慎重に守っていることを、わたしはもう知っている。できることが増えると、つい忘れてしまうけれど。


(こちらは自宅の冬支度の様子、一気に寒くなってびっくりして出した。大きいくまもいるよ) 



 よくみずうみで夜に焚き火をする、彼とふたりで、あるいは大事な友人たちと。星空がはっとするほどうつくしい瞬間がある、長い尾を引く流れ星になんでもない日に出会えることも、夜の海ほど、夜のみずうみは怖くないことも、そこでは言葉がよりうつくしく存在することも、最近になってから知った。火に照らされたわたしを、この世で星のひかりように暮らしている友人たちがうつくしいと言ってくれた。そのことはときどき、本当のたからものをそうっと手にとったときのような、あるいは花の砂糖漬けを口に含んだようなときのような気持ちで、わたしの胸をひた、と満たす。きっと生きていける、と思う、今日も。



 それではそろそろおやすみなさい、ゆっくりあったまってね。



追伸・この日記が更新されたら通知が来るよう登録してくださっている方々がいらっしゃるようで、なんだかうれしいです。できるかわからないのだけど、いつかコメントやマシュマロ(匿名のメッセージ送信サービス)で言葉を送ってくださった方にお返事をするようななにかがやってみたいです。ふわふわしすぎていてびっくりしたでしょう…ほほほ、できないかもしれませんな…。前回の日記の感想を送ってくださった方、ありがとうございます。お返事差し上げていいのかわからなかったので、こちらのご挨拶で失礼いたします。

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