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juri kitagawa

2023年9月中頃、生きることをしている



 ここにくるのはいつも久しぶりになるので、そういうことを言うのは割愛しようといつも思うのだけれど、それでもやっぱり言ってしまうくらいの期間ここに来ていなかったことにびっくりする、お元気ですか、わたしは随分、ほんとうに随分元気になったように思う、うれしい、そして驚くべきことに、ちょっとくるしい。



(めちゃくちゃ散らかっているアトリエの小さい方の机)



 ほとんど丸3年かそれ以上の間、わたしの仕事はあまり先に進むことはなかったと思う。少しペースを落として、休みましょう、休もう、いまはゆっくりしたら、いつでも大丈夫です、待ちます、といろんな優しいひとたちが声をかけてくれる中で、わたしは少しずつ、体と心を緩め、休んでみよう、ほんとうに、と思えるようになった。メールの画面をひらくことが難しい、あるいは逆に閉じることができない、ごはんをつくっているとき、立ち続けていることができなかった、夜中も、それ以外のときも、ずっと動悸のようなものがしている、きちんとした睡眠がとれない、なにもかもがおそろしい、たとえば下りの階段をみたときや、洗濯物を干す場所なんかが怖い、その目の前の出来事と同じくらい、世界でなにかが起きているのがこわい、それを自分の異常だと思わなかった。「つかれた」ということが苦手だ−−いまでも不得意だけれど、休憩がうまくなったとは思う−−けれど、あれはものすごく、つかれていたと思う。そこで、自分は自分に休むことを許すのに時間がかかったけれど、根気強く休ませてくれた夫に、家族に、話をし続けてくれた彼や彼女に、待っていてくれたあなたに、心から(ほんとうのほんとうに、こころから)感謝して、わたしは長い間の”空白”を得た。わたしにとっては空白なんかではない、こんなに続くと思っていなかった、ながいながい時間をもらった。”空白”にいたわたしの日々は、ずっとツイッターやインスタグラムやここなんかでも綴っていたような、弱く不明瞭な休憩の時期で、しかし同時に戦いでもあった。ずっと手をつけずに見て見ぬふりをしていたわたしの心のなかに、過去に、現在に、身体に、深く潜った、紛れもない戦い。たたかう価値があった、間違いなく。いまのわたしは勝ったでも負けたでもない状態であり、その状態を得てなおこの世界で立っていられることが重要なので、その”空白”を経て、元気だなあとぼんやりしっかり思えるようになったいま、なにがくるしいのかというと、簡単なことすぎるけれど、そのたたかいは、わたしのキャリア(と呼んでもいいのかわからないくらいあったかどうかもわからないものだけれど)に文字通りの空白を与えた、そのことがいま、追いつけないなにかを追いかけたいような、あるいは追い越さなくてはいけないような、気持ちにさせてくる、だから元気で、やっぱり少し、くるしい。そんなことはできないからね。


 それでも、その空白を経て(または、歳を重ねて)、自分がなにをしたいかやすべきかが、明瞭になった気がする。それは健康なまま、そのままのペースで歩き続けていたら、一旦見過ごしたり、似た別の場所にたどり着いていたり、していたかもしれないな、と思う。そこに、いまのわたしができうる限りの踏み込み方で、辿り着こうとしている。こわくて、わくわくする。生きている、と最近、ときどきに思う。




(最近よく行くようになった近所のお気に入りの喫茶店で、絵を描くように文字を書く、を練習しているところ)



 だからさ、焦らなくていいんだけどな、どうかね、わたしよ。きみがいまいる場所は、きみだったから辿り着けたはずやで。ここから先の、場所もそうだ。このわたしの足で歩くから、踏みしめる道が、みえる景色が、あるんだ。そこを見に行こう、見えなかったものはもう、見えないままでいい。少し休んだから、きっと丘を登れる、その先に山や湖があるかもしれない、そこを眺めたり、中に入って確かめたり、しよう。そこになにがあるだろう、そこでなにを思うだろう、なにを描くだろう、なにを書くだろう。


 うれしくて、少しくるしい、しかしここには未だ希望がある、あの頃には大きすぎて持ち切れなかった希望がある。それをはっきりと持ち直した、ような気がする。生きることをしていく。






20230915 31歳

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