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  • juri kitagawa

2022年11月1日、夜のアトリエ、絵と文のこと


 夜、絵を描かなくちゃ、という気持ちになりアトリエにやってきた。そういう気持ちになって絵を描くことが良いことかどうか、たぶん一生わからない。ただ夜になると、描かなきゃ、と思うことがある、わりとよく。


 小学生の頃も中学生の頃も、夜には交換ノートを描いていた。もちろん文章だけでなく、絵もたくさん描いた秘密のノート。わたしのあいすべき友人たちは、みんな絵がうまく、わたしはいつも彼女たちに憧れていた。”こんな色がわたしにも選べたら”、”こんな線が引けたら”、”こんなふうな可愛い洋服の組み合わせができたら”、”こんな風にじょうずに描けたら”……わたしは手癖だけで描こうとする怠惰な子どもだったので、毎回同じような絵を描いていたような気がする。いまもむかしも、不勉強で恥ずかしい。それなのに今も描きたいと思い続けていることを、馬鹿らしくて幸福だと思う。



(描き終わるころにはいつもぐちゃぐちゃになる机のうえ。シャープペンシルは、小学3年生の頃に買ってもらったもので、なんだかんだと、これがいちばん描きやすい…と気づいてからは、壊れないかとひやひやしながら使っている、けど、壊れたら壊れたで、いまのいちばんを探しにいこうね)



 自分にとって絵とはなんだろうということを、深く考えたのは大学生になってからで、特にわたしの敬愛する教授が、「大学では、人生における絵との距離感をつかめるといい」というようなことをおっしゃっていたから、それを測りたいと思いだしたのは大きいことだった。しかしもっと根源的なことを探ったのは、おそらく大学院生になって修士論文を書かなくてはいけなくなってからで、そのころの答えといっしょに、そのころのわたしがつくったステイトメイトの文章を大事に、少しずつ更新しながら持っている。文章を変えなくなってから数年経ったけれど、またもやその更新が必要なのかもしれない感じたのは、今年の4月になってからのことだ。その言葉がほんとうの意味を持ち、わたしに作用するまで、いまもじっくり待っている。ただの言葉だけのこと、と思われるかもしれないけれど、交換ノートには絵も文も必要だったように、わたしには絵と同じくらい、その言葉が必要で、重要なのである。



 なんの話かわからなくなってきただろう……、昔から夜に書いたブログや手紙には後悔してきたけれど、今回もそうなるのかしら。あまり、”自分が絵を描く”ことについて、言葉にしない方な気がするので、すこしだけ書いてみました。でも読み直してみると、今回もそんなに言葉にはできていないなあ。ときどき、学生の方からメッセージをいただいたりもするので、こんなひとも描いて、この世を生きているようだと思っていただけたら良いのかな。



 近況みたいなことでいうと、最近は調子が良い感じです。ちょっと元気だけど、油断せずに休んでいます。あたたかいものを飲んで、手足やおなかを温めて、寂しい気持ちでもゆっくりやっていこうよね。  もうじき冬がくるね。






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