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juri kitagawa

2022年7月末、みずうみにいたこと、服を買うこと


 今年の夏は暑い、昨年は8月末にはもう風の中に冷たさが混じっていたようだけれど、今年はそんなことも想像ができないくらいの暑さが続いている、熱中症を例年よりかなり意識してしまう。


 昨日と一昨日、夫と夕方のみずうみへ行き、お客さんのひいた水の中を贅沢に味わった。夫もわたしも、母方の祖母の家が海辺にあったためか、コロナ禍以前は湖より海でよく泳いでいたが、遠出しづらくなってからはもっぱら近くの浜に徒歩で行き、水を堪能したあとは、ほぼ泳いだそのままの格好であたたかい風のなかを帰るようになった。わたしは泳ぎがへたなので、夏ごとに平泳ぎの練習をしている、海でも湖でも。みずうみの方が海よりも波が穏やかで、淡水のため若干フォームの練習がしやすい。海で心置きなくまた泳げるようになるまでに、うつくしい平泳ぎをマスターできているといいのに。わたしは海のなかにいるとものすごく安心するのにものすごくおそろしがるので、もっと仲良くなれればいいのにと思う、人生をかけて。



(アトリエの壁に取り付けた板に、ドライフラワーをまとめた時の写真)




 最近、よく安い服を買ってしまう、可愛くて、気軽に洗濯できて、うすくてよく乾く、大量生産された洋服たち。それらは夏のわたしの生活を少し良くする、少し罪悪感を伴わせながらも。自分なりに洋服のことをあいしているつもりなので、安くても高くても、可愛く(わたしの言う”可愛い”はいわゆるそのままの意味だけでなく、全体的にグッドであることでもある)あれば手にしたい気持ちも大事にしたい気持ちも同じのはずだったのに、近頃はちょっと、”安い服を買う”ことに向き合えていないまま手に入れて、バランスが取れていないような感覚があるので焦る。街へ出て、実際に洋服を見歩く機会が減ったからというのもあるかもしれない。そしてそれと同時に、わたしのいまの状況が”楽な服”を好む傾向にあることも気づいた、できるだけストレスがかからない、いつでも清潔を保ちやすい服に安心している。30代になってから、20代後半で固まってきていた洋服のテーマや好みや方向性、のようなものが揺らぎ続けている(同じ年頃のみなさんはどちらでお洋服をお求めですか…)。

 母は、わたしに若い頃の服をよく譲ってくれる、縫製のちゃんとした、丁寧に、しかしよく着ていたであろうあいされた洋服たち。そのあいされてきた様を目の当たりにすると、わたしも同じようにしてやりたい、と思う。できるといいな、と思う、少しずつ。そうしていつかその宝物のようなクローゼットを開くのは、きっと幸せなことだろうな。



(先日夫が買ってきてくれたヤオイソの桃のサンドイッチ、お嬢様のおやつという感じで素敵だった)



 一旦やわらいだようで、なんだかまだまだおそろしいような気がしているけれど、わたしはもうこの感覚が正しいのかどうかもよくわからないまま消毒したり、会うのを控えたり、しています、みなさんは大丈夫ですか。この中で、怒ることもかなしむこともおそれることも、たくさんある中で、いとなみを続けているわたしたちはそれだけでたいへん偉いので、可愛いものや素敵なことやたのしいものや美味しいものをみつけたら、迷わずそばに置きましょうね。生きていようね。

 なんとなくしんどくなったら、放置していた冬物を片付けたり(まだ冬物がちょっとだけ出てるのうちだけかなあ…)、冷蔵庫の中身を見直したり、段ボールをまとめたり、お風呂につかったり、床や網戸や窓を拭いたりすると、わたしの場合はなぜか落ち着いたりします、少しつめたいお水を飲むのもいいかもしれない。


 長くなりました、久しぶりに書くことができて良かった、良い夏を。

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